なぜ、横文字は使われ続けるのか
by Masaya Takizawa言葉は意味だけでなく、所属や立場、共有された作法も運んでいる。指標性という視点から、カタカナ語が使われ続ける理由を考える。
「エビデンス」じゃなくて「根拠」、「ローンチ」じゃなくて「公開」、「リスケ」じゃなくて「日程変更」。
たしかに、辞書を引けば日本語に言い換えられる言葉は多い。一方で、それでもカタカナ語(横文字)が使われ続ける理由を考えると、単なる「言い換え」では説明できない部分がある。ことばは、「何を言っているか」だけを運んでいるわけではないようだ。
ある言葉を選ぶことで、話し手がどんな立場にいるのか、どんな集団に属しているのか、何を当然の前提としているのかまで指し示すことがある。
言語外参照的指標性とは
社会言語学では、こうした働きを「指標性(indexicality)」として考える。
例えば、「私は行かない」「俺は行かない」「わしは行かん」は、指している出来事だけを見ればかなり近い。一方で、「私/俺/わし」という選択からは、年齢、ジェンダー、地域性、キャラクター、話者同士の距離など、発話内容とは別の情報が漏れ出す。
ここで起きているのが、「言語外参照的指標性」だ。
表は横にスクロールできます。
| 言語内在的指標性 language inherent indexicality | 言語外参照的指標性 language external indexicality | |
|---|---|---|
| 何を指すか | 言語形式が言語の意味の働きの中で文脈・事象を指し示す関係 | 言語形式が言語外の事象(話者の社会的属性・出身・場面など)と結びつく関係 |
| 指標の向き | 語・文 → 指示対象・発話状況 | 形式の選択 → 話者が何者か |
| 意味への関与 | 指示的意味(何を言っているか)に不可欠 | 指示的意味には寄与しない(何を言っているかは変わらない) |
| アイデンティティとの関係 | 関係しない | アイデンティティに関係するのはこちら |
言葉が対象を指すだけでなく、その言葉の選択自体が「誰が言っていそうか」「どんな場面か」「どんなスタンスか」を指し示す。「俺」と「私」は同じ人を指せるけれど、社会的には同じではない。
ビジネス用語も、意味だけを運んでいるわけではない
この視点で見ると、ビジネス用語も少し違って見える。
例えば「disagree」。辞書的には「反対する」「同意しない」で言い換えられる。一方、あるチームで Disagree and Commit のような考え方が共有されていたとする。
そのとき、「そこは disagree です」という発言は、単に「反対です」と言っているだけではないかもしれない。
意思決定の前には異論を出す。意見の不一致と、決定後に協力することは別。そして、決まった後はコミットする。そうした共有された議論の作法や、次に期待される行動まで参照している可能性がある。
もちろん、disagree という単語自体に「決まったら従う」という意味が入っているわけではない。重要なのは、その集団の中で、言葉に文化や行動規範が結びついていることだ。
「オーナー」「DRI」「担当者」も似ている。
「この施策の担当者は誰ですか?」だと、実際に作業する人を聞いているようにも取れる。
「この施策のオーナーは誰ですか?」「この施策のDRIは誰ですか?」なら、実務だけではなく、「最終的に誰が責任を持つのか」という責任構造まで含意しやすい。辞書的な指示対象は近くても、その言葉が呼び出す社会的なモデルが違う。
言葉は、アイデンティティを表示するだけでなく、作る
ここでもう一つ面白いのが、identity-marking と identity-making という考え方だ。
言葉は、自分が何者かをただ表示するだけではない。言葉を使うことで、自分が何者かを作っていくこともある。
identity-marking は、ある言葉を使うことで、すでにある集団への所属やアイデンティティを表示すること。
たとえば、「ローンチ」「オーナー」「アライン」「disagree」といった語彙を自然に使うことが、「スタートアップやプロダクト開発の文化にいる人」という所属を指標することがある。
つまり、この言葉を使う人だから、この集団の人だという方向。それだけではない。
identity-making は逆方向だ。その言葉を使い、その言葉に結びついた作法を身につけていくことで、自分自身が、その集団の一員として振る舞うようになる。
中学生が一人称を「僕」から「俺」に変えるとき、それは単に「男性だから俺を使う」という属性の反映だけではない。
「俺」を選ぶことで、「自分はこういう人として振る舞う」というアイデンティティを作っている面もある。
ビジネスの言葉にも同じことが起こる。
「DRI」「オーナー」という語を使い続ければ、仕事を「誰が責任を持つか」という構造で捉えるようになるかもしれない。「disagree」という語とともに、異論を出すことと、決定後に協力することを分ける文化を身につけるかもしれない。
つまり、言葉が文化を表しているだけでなく、言葉を使うことで文化そのものが再生産される。
identity-marking と identity-making は、かなり相互的に起きている。これはカタカナ語だけの特殊な現象ではない。
「俺/僕/私」もそうだし、「先生」「部長」と相手を呼ぶこともそう。方言もそう。「行かない」と「行かへん」は、出来事としては同じことを言っていても、「行かへん」という形式が地域性や人物像を指標する。
ことばはいつも、「何について話しているか」と同時に、「どんな人として話しているか?」を運んでいる。
日本語か、横文字か、という二択ではない
「エビデンス」は「根拠」でいい。「ローンチ」は「公開」でいいし、日本語にしたほうが早く伝わることも多い。
少し面白いのは、それでも特定の横文字が残り続ける理由が、単なる言い換え以上のところにある場合があるということだ。
言葉を置き換えることで、どの集団に属しているのか、どんなスタンスを取っているのか、どんな役割関係を前提としているのか、どんな行動規範を共有しているのか、といった情報まで変わることがある。
逆に、そうした前提を共有していない相手に「アライン」「オーナー」「disagree」と言っても、その指標的な意味は伝わらない。その場合は、普通に日本語で説明したほうがいい。だから、「日本語かカタカナ語か」のどちらが正しい、という話ではないし、日本語にしたほうが伝わる場面はたくさんある。
そのうえで、ある言葉が何を指しているのかだけでなく、その言葉を使うことで何を指標しているのかまで見ると、なぜ特定の横文字が使われ続けるのかも、少し違って見えてくる、気がしている。
とても面白い。
(ここでは、「ストーリーズ」「カレンダー」といった語の意味的な観点は扱っていない。)